最近、久しぶりに「ブラザー・サン シスター・ムーン」を見ました。 十字軍戦争の真っ只中に生き、真の救いとは何かを身を持って示したキリスト教の聖人の話です。

小鳥1 小鳥2

聖フランシスコはまさに本心の声に忠実に生きることのできた人です。聖戦の名の下に泥沼化した十字軍戦争を重ね、腐敗・形骸化したキリスト教の中で悶え苦しみながらも、福音書の中に本当の救いとは何かを見つけ、自然を通して神をみいだします。そして全てを神に捧げた生き方を選択します。

裕福な家庭に育ちながらも全てを捨てて、何も持たず乞食になり、貧しい人々と生活を共にします。そして廃墟と化した古い教会を再建し、そこで礼拝の生活をします。

兄弟教会

そのような生き方を馬鹿にしていたフランシスコの友人達も、その純粋な信仰に徐々に感化され、自ら進んで従って行くのですが、その1つ1つのシーンは感動に値するものです。友人達の回心の瞬間が本当によく分かります。

最後のクライマックスでは、当時絶対的な権力を誇っていたローマ教皇の御前で、まさに死刑になることを覚悟で当時のキリスト教の姿を憂いながら、マタイ伝の有名な一説をもって強烈に批判します。

「空の鳥は、蒔かず刈らず倉に取り入れることもしない。だが神は養って下さる。いくら思いわずらっても命が延びるでしょうか。なぜ富を思うのです。野のゆりを見なさい。労もせず紡ぎもしない。しかし栄華を極めた時のソロモンでさえこの花の一つほどにも着飾ってはいなかった。信仰の薄い人よ。何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩むな。それは異邦人が求めるものです。何より神の国と義を求めなさい。その他のものは全ておのずと与えられる。宝を地に積むのは無益です。虫が食いさびがつき盗人がそれを奪う。
宝は天に積むものです。そこには虫もさびもなく盗人もいない。宝を捨て心に生きるのです。信仰の薄い人よ。2人の主人に仕えることはできない。1人を憎み他を愛し1人を重く扱い他を軽んじる。
神と富に共に仕えることはできない。」

教皇1教皇2

このフランシスコの叫びは、決して過去の遠い昔のことではなく、現代においても私達の心に響いてきます。物質的な喜びにより大きな価値を置くことが、決して真の喜びには繋がらないということを誰もが知っているのではないでしょうか。

しかし、、、そんなことは分かっていながらもしがみついてしまう、そんな姿はまさにフランシスコが生きた当時の人々の姿であり、現代に生きる私たちの姿なのでしょう。

 

 

学生時代見た映画を久しぶりに見て、思わず真面目なことを書いてしまいました。